北海道大学歯学部同窓会 |
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平成10年度特別講演会 日 時:平成10年9月13日(日)10:00~16:00 会 場:北海道大学 学術交流会館 演 題 「ものと心」 講 師 河合 隼雄 先生 (京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター所長) |
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私の父親が歯科医でして、今は亡くなりましたが、私のすぐ上の兄が跡を継いで故郷で歯科医をやっております。それで歯医者さんから呼ばれるとどうしてもと思い、やって参りました。私はもちろん専門は違いますし、私の父親が歯科医でして、今は亡くなりましたが、私のすぐ上の兄が跡を継いで故郷で歯科医をやっております。それで歯医者さんから呼ばれるとどうしてもと思い、やって参りました。私はもちろん専門は違いますし、あまり役に立つ話にならないかもしれませんが、一般的な話でよろしいということでお話しさせていただきます。 題ですが赤池先生が「脳と心」という題を出されておられましたので、私も「脳」という字を「悩」に換えて「悩と心」という題にさせていただこうかとよほど思いました。それが私の職業といいますか、いろいろ悩みのある人が私のところに来られて、その相談をやっていますので。けれどちょっとふざけていると思われますので、「ものと心」というふうにつけさせてもらいました。 さて、「心」と言った場合大変難しい問題がありまして、「心」をどう考えるかというところから問題があります。赤池先生もおっしゃったと思いますが、心と言う実体はないわけです。心は存在していないのです。物好きな人が、実験でヒトが死ぬ寸前に体重を量り、死後と比較して変化しないことから、どうも心は無いらしいといったことがあるそうです。心は物体としての質量をもっているわけではありません。だから心などというのは、あると言わない方がいいのではないか。一般にやっております心理学では、心とは殆ど言いません。心と言い出すと非科学的になるので、科学的に研究しているのであるから、心理学でなく行動科学(BehavierScience)と呼んでおられる方が多いと思います。で、それが一般的な心理学の大勢を占めているのですが、私はそうではない方なのです。どういうことかと言いますと、わたしの仕事は、先ほど申しましたように相談を受けておりまして、たとえば昔よくありましたのは、本を読もうと思うと目の前の鼻が気になる、それがひどくなると、目と目の間が陥没して醜い顔をしているから皆がいやな顔をすると言います。見ると全く変わったところはない。歯科医の方のところにも来ると思います。たとえばここが引っ込んでいるので何とか出したいとか、前歯が出過ぎているのでとか。それぐらいだったら大丈夫じゃないですかと、医者としては言いたくても、本人がそれを気にしている。そういうノイローゼの方が来られましたときに、私も何人かお会いしましたが、「全くあなたは普通ですよ」と言うと、すごく気に入らないんですね。「いや先生、嘘をついていただかなくて結構です。私は自分でわかっていますから」と。自分で判っていると言っても、それなら「測定器か何かで計ってみましょうか?」などと言ってもだめなんですね。本人がそう思っているわけですから。そうするとその場合に、その人がそう思っていると言うことがすごく大事なわけです。それを何とかしない限りは、解決の仕様がない。その時に、「人間の心など実体はないのだ」などと言っても、仕方がないんですね。その人が治ってもらわないといけない。で、我々が考えたことはそういう客観的なことではなくて、人間は自分のことを自分で考えたり意識するだけではなく、その意識の中に感覚・感情が入っていますね。痛いとか、寂しいとか、悲しいとか。そういうものを全部総体として「心」として呼んでいく方が便利ではないか。そういうものに対して我々はどう考えるかと言うことをやっていった方がいいのではないか、そういうふうに考え始めたわけです。 だから私たちの考えている「心」というのはまずそういう主観的な観点から入っていっているわけです。これがいわゆる科学的に心理学を研究しようというのとは、はっきり違っていると言っていいと思います。で、その辺が非常に難しくてですね、私がこういう仕事を始めたときに攻撃されたのは、おまえのやっていることは科学ではないということをよく言われました。わたしはもともと数学の出身でして。心理学など全然科学ではないと。そこで、いや、あなた方も怪しいことをやっているが、私はもう少し怪しいことをしているのだと。しかし、なぜ怪しいことをしているのかという自覚を持っている。つまり、いい加減に偽科学をやっているのではなくて、主観的な心ということを問題にせざるを得ないからそこから出発しているんだということを自覚してやっているんだと。そういう意味では、これも新しい科学と言っていいのではないかということを言っていたのですが、そういうことで「心」ということを考え始めたのです。そうするとだんだん気が付き始めますのは、近代科学というのはそういう主観的なことをできるだけ排除する、できる限り物事を客観的に観察してそこにある法則を見出すという方法をとってきたんです。だから、皆さんは科学者ですけれども、要するに観察する現象と観察者というのは、関係がないんです。そうすると、物が落下するのでも、法則を見出すとそれは「私」と関係がありませんから普遍的な法則が見出される。ところが、たとえばこういう時計を見せてですね、この時計なかなかいいでしょうという時には私と関係があるわけですね。いいと思っているとか、実はおじいさんにもらったものだとか。しかし、文化の異なるところに行ったりすれば価値がすぐ変わってきたりもします。そうするとそういうのはなにも客観的な真理じゃないじゃないですか。それに対して、落下の法則とかそういうことをやっているとそれは客観的真理として出てくる。 だから近代科学が強いのは、普遍的で信頼できるわけですね。近代科学的に研究した物は、こうすればこうなるとはっきりわかっているわけです、因果関係が。だから近代科学が、しかもそれが技術と結びつきますと誰が話をしようと、こうなるとはっきり言えるわけです。たとえばテレビでも、言われた通り押せば画面が出てきます。言われた通り、マニュアル通りにすれば答えが出てくるということがものすごく世の中に増えてきたわけです。それで多くの人が人間もそういうふうにできると思い込みすぎたのではないかと私は思っています。で、これは非常によく例に挙げるのですが、自分の子供さんが学校に行かなくなって、三年経っても四年経っても行かないと言うので、うちに相談に来られたのです。その方が入ってくるなりですね、「先生は京大の教授でしょう」と言うんで すね。私は京大にいましたので「はい、そうです」と言いますと、「考えてみて下さい。科学がこれだけ進歩してボタンを押せばロケットが月に行って帰ってくるんですよ」確かにそうですね。「そういう時代にうちの息子を学校に行かせるボタンはないんですか」と。あれはすごく感激しました。「科学技術が進歩して全部うまくいっているのにうちの息子ひとり学校に行かせるボタンもなくてあなたはどうして京大の教授やっているんだ」と。心理学の教授やってるわけですからね。そう怒られたんで。私もまあ何か言わなくてはと思いまして、「いやいや、それは簡単ですよ」と言いましたら喜ばれて。「どうするんですか?」と言うので、「寝ている間に賛の子を巻き付けておいて、朝放り込んだら学校に行ってますよ」と。「それは困る」と言うんで「なぜ困るんですか?」と言ったら「息子が自分で行かないと困る」ということで。その時話したのが、息子をそういうふうに扱って放り込むんだったらできる。ところが息子に自由意志がある。息子の意志で学校に行ってほしいとあなたが考えられたとたんに良い方法はなくなると。その通りなんですね。良い方法というのは物にはできる。ところがひとりの人間をその人の意志で動かそうというのは非常に難しい。ただしこれは絶対にできないということはありません。物事によってはできます。たとえば皆さんを今ここから出そうと思えば、煙を焚いたりとか、人間も操作可能な部分も持っているわけですが、いつもそんな方法を使ってもいられません。 皆さんご存じかと思いますが、これは例を挙げるとわかりやすいのですが、科学的に息子を学校に行かせる方法があるということで、これは「行動療法」というものがあります。「心」なんて言わないんです。子供が学校に行かないのだから行くというように行動を変えればいいというんで行動変容と言うんですね。実際こういう例もあります。そういう子供にですね、「君、学校になんて行かなくていいからちょっと玄関まで出てごらん」、「玄関まで出られたのならその3軒先の角まで出てごらん」とだんだん延ばしていくんですね。で、とうとう校門まで行く。そして保健室まで入るようになった。実際あった話ですよ。で、保健室まで来て、その先生が「わあ、保健室まで来た」と喜んだ途端にですね、その先生の熱意が切れるんです。来た来たと思うでしよ、するとその先生はちょっと天狗になって「見ろ、来てるだる」なんて言うと、ちょっと腹立ってる先生もいますから「何だ、保健室にいないで教室に入らんか」なんて言われた途端にその子はパーッと家に帰ってしまうんです。要するに行動変容してるときに、それをさせている先生とその子の関係があるんです。その先生がほめてくれて、その先生が言ってくれるということがあるんです。その関係が切れた途端にもと通りなってしまうんです。そこで私の言いたいのは、近代科学の方法は、対象と観察者が関係がないということを前提にして研究してきたわけですが、対象と研究者が絶対に関係があるということを前提にしないと話が進まないということを私の仕事はやっているというふうに考え始めたんです。だから私がやっていることは少なくとも近代科学ではないということです。そして非常に大事なことは、対象と私の関係がどの程度の関係で、どうなっていて、どんな関係があるのかということをできる限り皆に通用するような方法で、それを理解して言語化するということをやらなくてはいけないと考え始めました。そういうふうに考えて自分の仕事をそれなりに体系化して考えようとしてきたわけです。それはそれでおいておきまして、そんなふうに、対象と私、また、心と体というふうにはっきり区別するということで物事を考えていくというのは、考える場合にいちばん便利な方法ですね。実際皆さん話をしていても区別のはっきりしない人はいやがられるでしょう。たとえば「明日来ますか」などと言っても「いやいや、まあ、できるだけ前向きな姿勢で」などと言われたら「前向きはいいから来るのか来ないのかはっきりしろ」と言いますよね。すると「いやいや、来るつもりなんですよ。しかし…」などとね。明確なほうが喜ばれるわけです。自然科学というのは対象を個別化して、きちんと定義して作られているわけです。いわゆる自然科学的な研究をしておられる方はそれでいいと思いますが、実際開業して患者さんに会っておられる方は「心」ということを考えざるを得ないと思います。 どの患者さんが来ても同じように対応できるか、それからまた、医学的にはそんなに痛くないはずなのにめちゃめちゃ痛がる人がいるでしょう。「痛い痛い」って、何も触っていないのに言う人がいますね。触る前から痛いという人はわかりやすいのですが、ちょっと触って大したことないと思っても痛がるとか。実際そういう患者さんに会われているかどうかわかりませんが、長いこと開業していると必ずあると思います。というのは、痛みというのは、こんな不思議なものはないですね。本人の報告以外に頼れる物はないのです。こちらが痛くないはずだと言ったって、痛いんですと言われたら言った方の勝ちですからね。医者だったらすごく腹が立ってくるわけですよ。しかし痛みというのは、本人だけが言えるということで不思議な物です。ペインクリニックなども増えてきましたが、そのやり方で痛みが止まる人もいますが、全くそれに合わない人もいます。特に我々がお会いするような人は心の問題として痛みを訴える人が多いですから生物としてのケースとしては何の問題もないように思えても本人が「痛い痛い」ということがあり得るわけです。しかもその痛さが、えぐり取られるような痛さだとか表現する人がいますが、こちらが痛くありませんと言っても本人が痛ければしかたないのです。これは皆さんが割合体験しておられると思います。そういう時に一体こちらがどう対処していったらいいか、開業などしておられるとそういう問題が大きいと思います。 そういう時にひとつ大事な決め手としては、「人間関係」と言うことがあります。たとえば、ある方が「苦しい」と言ったときに周りの方が「それは大変だ、あなたの苦しみよくわかりますよ。一緒に頑張りましょう」などと言ってくれればいいですが、「苦しくたって勝手にしたら」などと放っておかれると、いかに自分が大変かと訴えるのには、「痛い」というとわかりやすいですね。これは老人の方などに多いですね。老人が「痛い、痛い」というのは当然で、痛みというのはいちばん訴えやすいのです。本当に言いたいのは「もう少し俺のことを考えろ」と言いたいのですが、そんなこと言っても誰も考えませんから「痛い」と言うしかしかたないんですね。そういう痛みも、「人間関係の結果」として出てきてるというのがすごく私は多いと思います。実際に我々はそういう方にお会いしているわけですが、そういう方は医学的にいえば何の問題もない。それに対して薬など飲んでもらっても何の効果もないという人もいます。 私はこういうことをどうしたら図に描けるのかということをすごく考えたことがあるのですが。心と体というのは、もちろん図になる訳が無いのですが描けないことを描くのが心理学者でして…。 |
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心の部分があって体の部分があって共通の部分がある。そして不思議なことに人間というのは自我・自分というものを持っているわけですね。で、人体の中でもコントロールできる部分があるわけです。ところが心臓とかはコントロールできないですね。だから、「私、私」と偉そうに言っても、わずかなところで偉そうに言ってるわけです。しかし、体はコントロールできないから体の中にいろいろ問題が起こってきて心にも問題が起こってきて仕方がない。ところがこれがどれくらい重なっているのかは誰にもわからないし絵にも描けない。人体というのは客観的に研究できますので医学は発達していきます。ところが、医学というのは研究できても、医療というのはどういうことかと言いますと、この全体を相手にしています。ここが大変難しいことだと思います。医学的な研究の場合には、心とか体とか変なことはやめてどんどん研究できます。しかし人間の存在というのは、どうもこの絵でもうまく描けなくて最近は体と心と別々に描いてみたらいいかなと思ったりしています。1959年、私はアメリカへ留学したんです。その時にロールシャッハテストというのを随分やりまして。その大家のKlopfer 教授のところへ留学しました。当時、Klopfer教授が次のような研究をしていました。癌になってお医者さんから見ればこの命はだいたい三ケ月とかこれは一年もつとかそういうふうにわかりますね。ところが見込みと違うことが起こりますね。三ヶ月くらいと思ったのが一ヶ月もたなかったり、一年と思ったけれどもずっと生きていたり。ロールシャッハテストを患者さんにしまして、klopfer 教授なりにこれは癌だけれども長生きするんじゃないかとか予言する研究をしたんです。これが大分当てたんですが、klopfer 教授がそういう話をしてくれたときに簡単に言ってしまうと、「癌と意識的に闘う人は早く死ぬ」というんです。意識的にですよ。「癌だけれど頑張ろう!」とか意識的努力です。ところが癌の薬など飲んで、何にも効かない薬でもこれで絶対治ると信じているような人は長生きする。要するに抵抗していないんです。それから、もっと人間ができていて「ああそうか、もう仕方がない」「まあ、死ぬまでいきていよう」などと思っている人も長生きする。それもどの程度固い姿勢で癌に臨んでいるかということをロールシャッハでみているんですね。その中に非常に癌に対して抵抗の少ない人がいまして、本人も癌だとわかっているんですけれども「私はもう死ぬんですし、一度家内と旅をしたいと思っていたので、ヨーロッパに行って好きなことをして遊んできます。それで帰ってきて死んだらそれでいいです」と言って奥さんとヨーロッパに行って好きなことをして、喜んで帰ってきてみると…。時々ありますね、癌がなくなっていたのです。それを聞きました時に私が思いましたのは、やはり心と体はすごく関係していると。ものすごく関係があって心の方がそこまで完全にリラックスすると癌もなくなるという、そういう不思議なことが起こるんじゃないかと私は思ったのです。 その時、klopfer 教授がすぐに言ったのは、「そうすぐ、に心と体と関係があると思わない方がいい」と言うんですね。「心と体の問題はそんな単純なものじゃない。因果的に説明するのは非常に危険だ」と。たとえば癌だという人に「それじゃヨーロッパに行きなさい、治るかもしれませんよ」などと、このごろよくそういうのがありますよね。こうすればこうなるというのがね。そういうことを考えない方がいいということなんです。心と体の関係は…。その頃、Jung が言い出したのは「この辺の深いところの関係は因果関係じゃなくて、全くそうだとしか言いようがないもの」、これを Jung は Synchronicity と言いました。要するに心の問題と体の問題は非常に不思議な一致をみせる。ヨーロッパで本当にリラックスしたということと癌がなくなったということは不思議に一致するけれども、完全にリラックスしたら癌がなくなると因果的に捉えるのは間違いであると。これは Jung の言ったことを取り上げて、klopfer 教授が言ったのですが。その時ですね、1959年、Synchronicity という言葉を初めて聞いたのです。その時思ったのは、これはこれからの新しい心の問題、あるいは科学の問題ということに、ものすごく大事なことになるのではないかと思ったことを覚えています。それから Jung の本を必死になって読みました。Jung の言っていることは、ほとんど何も言っていないのに等しいくらいで…。どういうことを言っているかというと、「心と体の問題が起こったときに、そのすべてを因果的に理解するのは間違いだ」と言っているわけです。それではどう考えるかというと、「そういうことはありますよ」と言っているだけなんです。しかし、そんなのだったら何も使えないじゃないですか。因果的把握だったら使えるわけです。癌の人はヨーロッパに行きなさいとかそういうことを言えるわけですが。何も使いようがないじゃないかと思ったのですが、後で考えてみるとこれがなかなか面白い。有効だと思い始めました。どういうことかというと、「そういうことはあるのだ」と思うだけで随分違います。「そういうことはない!」という人はたくさんおられます。近代科学的世界観というものを自分の大事な世界観としている人には、私の言っていることはすごく腹が立ってくると思いますが…。私は近代科学というのはものすごく有効で絶対否定できない良い方法ではあるけれども、それイコール自分の世界観としてしまうのは問題だと思います。なぜかというと、我々生きているということは先ほど言いましたように対象とすごく関係があるわけですし、関係によって物事が動いてくるわけです。だから主観的なその人の心というものを大事にしなかったら困ることがいっぱいあるわけです。私などは、来られた人の主観の世界ばかり扱って生きているようなものですから、そういう Synchronicity ということは起こり得るのだということを知っているだけでも随分違うと思います。 ただし、ここで間違わないようにしてください。ここでちょっと好きな人はみんな偽科学か偽宗教を作ります。要するに「こうすれば治ります!」とか、「ああすれば治ります!」とか。「どうしてですか?」というと、「ちゃんと証拠があるんです!」「この人はヨーロッパに行って治っているんです!」とか言いますが、それはひとつの例があるだけです。またある人は腹を立てて「そんなことはうそだ!信用するな!」などと言いますが、これはあるんだから仕方ないんです。 ちょっと横道にそれますが、ある方が、我々が治療しているケースの発表ですが、非常に難しいケースで。だいたいノイローゼの人というのは難しいですよね。これはもうどうしようもないと思っているときにおじいさんが亡くなられたのです。で、おじいさんのお葬式に行って「やっぱり死ぬということはあるのだ」とか「あんなに好きだったおじいさんが死んでしまった」とか、その時にお母さんと抱き合って泣いたとか、そういうことが全部作用してその人が変わって行くんですね。すごいなあと思って聞いていたのですが、ある人が手を挙げて「おじいさんが死ななかったらどうするんですか?」って言うんですね。確かに良い話ですが、聞いていて何の役にも立たないんですね。おじいさんを殺しもできませんし、おじいさんが死ななかったらどうにもならない。「聞いても何の役にも立たないじゃないですか?」と質問されまして、なるほどなぁと感心しましたが、でも、質問したくなる気持ちわかりますね。それをそのまま利用できる、つまり自然科学のひとつの発表によってそのまま利用できると思っている人には、何の役にも立たないのです。ところが、我々が「役に立った」と思うのは、別におじいさんが死ななくても、たとえば雨が降ってもいいかもしれない。小鳥がさえずるかもしれない。すべてのことがどこでどう関係しているかわからないんです。実際そういうことの関係で人の心というのは本当に変わっていくわけです。私などは良い天気か、雨が降っているかさえ大事にしているくらい、ほんのちょっとしたことがきっかけでがらっと変わるわけですね。それはそう いうことがあり得ると思って話しているのと、その人が来たときに「よし、俺が何とか学校に行かせてやるぞ!」というのでは、全然態度が違いますね。だから私は来た人に、私が何かしようという気持ちは、ほとんど今はないですね。何をしているかといえば、何もしていないんです。何もしていないんだけれどもちゃんと待っているわけですね。それでチャンス到来の時には何かしなければいけない時がある。そこがすごく難しいのですが。そこをチャンスと呼ぶかどうかという「読み」がいるわけです。普通の人は、おじいさんが死んだのかと放っておくわけですが、その人の報告などを聞いていて、今がチャンスと思えば、母親に電話をかけて「せっかく一緒に泣いたのでしたら、こうしたらどうですか」とか。そうした偶然とかみんなが問題にしていないようなことが、すっとある時にきれいに起こって、「読めた」と思える時には使えるわけですね。そういうことができるというのは私の仕事にはすごく大事だと今は思っています。だから私は患者さんに対して、どういう操作を加えるとどう治っていくかという考え方をほとんど持っていません。ただ、非常に簡単な場合はできます。しかし普通そんな簡単な人は相談に来ません。そうですよね。たとえば話を聞いていて、お母さんにもう少し子供に優しくした方がいいなどと電話して、「お母さん、明日から優しくしてください」などと言って誰が変わりますか。よく言うんですがそんな忠告を加えて人が変わるのだったら私はまずいちばんはじめに忠告したい人がいる。それは河合隼雄です、と。そんなちょっと言われてすぐ変われるなどということは人間はできないんです。しかしそれは全然変わらないかというとそんなことはありません。やはり変わるんですね。それは変わる時とか「全体の読み」とか全部関係してくるわけですよね。その「全体の読み」が変わるのを読みながら待っている、ということを私はやっていると思っています。だから体と心というのは非常に不思議な連関を持っているとしか言いようがないですね。因果的連関といえるのは非常に少ないのではないかと。因果的連関というのはたとえば悲しかったら涙が出ますし、実際に病気になると気分が沈みます。これは当たり前ですね。体と心の問題で因果的連関で捉えられるのはずっと上の方で下の方は連関ではとらえられないのではと思います。そうすると全く連関はないのかというと、これはあると思っています。それは非因果的連関でしかもそれをうまく我々は起こすことができない。起こすことはできないけれど、起こった時にうまく利用することはできるというように考えています。 そのように考えていまして、この辺り(自我の辺り)だと話し合いで解決できたりする。この辺り(少し下)まで降りるとどうしようもない。その下まで降りるとますますどうしようもない。だから問題が深くなるほど、何もせずに待っているということがすごく大事になります。 もうひとつは「私とその人との関係」ですね。私は結局来られた人と会ってその人の話を聞きますね。そうすると聞いている間にですね、問題がこの辺り(自我の辺り)と思ったら忠告を与えることができる。また、親に言ったり友達に言ったりもできます。話を聞いている時にすごく大事なのは、私も自我を持っているわけですが、私がこの辺り(自我の辺り)で話を聞いているとだめですね。たとえば学校に行っていないと言うと「いつから行っておりませんか?」などということになる。また「あなたのお父さんのご職業は?」「大学の教授です」「それは困るでしょう」などと言ったりして。困ると思うのはこちらがそう思うだけで、「その人のことが理解できてきた」などと思うのは、私が私の人生観に基づいて言っているだけなんです。下手な人ほどそういう聞き方をして、一生懸命聞いて、役に立たないことをしているわけです。 そこで、聞きたいことを下の方に降ろしていって、いい加減に聞くのです。そのいい加減が難しいのですが。その人の話に付いていってぼんやり聞いているのですが、このぼんやりががすごく難しい。あんまりぼんやり聞いていると寝ますから、寝る寸前のところで聞いているのです…。皆さん、笑いますけれどもこれはすごい修練です。ものすごい修練をしないとできません。例をあげるとバッターボックスの選手とすごく似ています。すごい注意力とすごいリラクゼーシヨン。肩の力を抜いてといいますね。来たら打たなきゃならないけどその前はすごいリラクゼーションで。私はスポーツの番組を見たり聞いたりするのが大好きです。私の職業とすごく似てるところが多いですね。どう似ているかというと、話を聞いているときにどの辺まで降ろして聞いているかということで。皆さんご存じでしょうが野球の選手というのは、これはわかっていることですが、本当に球が見えてから球に対して打とうとしても絶対に間に合わない。理論的にわかっていることです。だから、大選手というのは球が来る前に何か準備をしているのです。その準備の時に直球待ちとか言いますね。その時何が来るかというのを頭で考えてもだめなんですね。ある程度説明はできるけど不思議なことで動いているんですね。大選手になるほどその辺が大事になってきて。そういう態度でバッターボックスに立っているわけです。我々も一緒で、鍛えて鍛えてこの辺り(自我の下の方)で話を聞くようになってきます。そうすると普通の人の対話とすごく違ってきます。単に話し合いをしているといってもすごく違うと思いますね。ちょっと心理学をかじった人はすぐに原因を見つけたがる人が多いです。「お父さんの職業は?」とか「お父さんはどうですか。怖いですか?」などと聞いてこちらで勝手に心理学を作ってしまう人が多いですね。お父さんが怖いと言えば「これが原因だ!」とか、怖くないと言えば「これが原因だ!」とか、何でもいいから原因を作ります。もっとひどくなると怖いと言えば「これだ!」と。怖くないと言えば「こういう否定的なことをいうのは怖がっている証拠だ!」などと、どんどん原因を見つけていくんです。私はそういう原因を見つけようとする気持ちは、もう無いに等しいくらいです。ぼんやりぼん やり聞いていると話す人が平素自分が意識していないことが出てくるわけですね。で、一回目の時でも、帰りに、「こんなことを先生に申し上げるとは思いませんでした」と言う人がすごく多いです。自分が考えてみなかったようなことも、私がボーッと聞いているとボーッと出て来るんですね。そして自分でも思いがけないことが話されて、その人は自分がそういう話をしたということで変わられてゆくわけです。だから、これはもうスポー ツと一緒で、自分で自分を鍛えていかないと、なかなかそうはなりません。最初からできたわけじゃないです。しかし、スポーツと一緒でへたでも一生懸命にやって鍛えていけばできるようになります。そうして深い問題が動き出すといろいろと面白いことが出てくるわけです。そういうことを随分体験してきたわけです。今は体と心という問題ですが体は一種の物体ですけれども、もっと拡大すると「もの」になりますね。この、「ものと心」という「もの」の関係がですね、私たちが今思っているよりも、もっともっと不思議な関係があるのではないかというふうにこの頃思い始めたわけです。そういうことを思い始めたことと、仏教に対する私の関心が出てきたこととが一緒にあります。なぜ、急に仏教な のかを説明しますとこの辺りのことというのは、“夢”に出てきますね…。 |
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だから、我々も、“夢”を非常に大事にしているわけです。つまり、ここ(自我の辺り)の話はあまり聞いても、その辺りの話を聞いて治る人というのはほとんど来られないと思います。そういう人はだいたい友達に相談したり、親や兄弟に相談したりして解決されています。どうにもならなくなって来られるわけです。そうなると、もっと下の方へ下げていかなくてはならない。下げるためには、“夢”ですね。 日本の鎌倉時代のお坊さんで、明恵(みょうえ)という人がいるんですが。この明恵という人が、当時“夢の日記”を書いているんです。すごい人ですね。おそらく世界でいないんじゃないかと思います。“夢”が大事だということは世界中どこの本にもあります。これは、聖書にもあるし古事記にもあります。しかし、一人の人間がずーっと、“夢”を記録したというのは、近代以前では私が知っている範囲内で明恵だけです。明恵は十三世紀に生きた人ですが、明恵の『夢の記』というのがありまして。薦められて十年以上読まなかったのですけれども、これを推薦してくれた人がご存じの湯川秀樹さんです。面白い人ですね。湯川さんに何かの話で“夢”′の話をしたら、「明恵の“夢の日記”は面白いよ、“夢”′を記録してあるんだ」というんです。私はお坊さんが嫌いで何か仏教というのがいやで、読む気がしなかったんです。で、湯川さんに言われて十年以上放ってあったんですが、いろいろな関係で読んでみたらすごく面白かったんです。ものすごい人がいたというふうに思いました。我々は慣れてますから、その、“夢”だけでどんなに大人物かわかります。それで『明恵 夢を生きる』と言う本を書いたのですが。明恵という人はすごい人で自分で夢′′を記録して自分で解釈を書いているんですね。その解釈というのが私らが読んでもなるほどなと思うくらい大したものです。で、明恵を読み出したおかげで仏教を読み出したんです。明恵の本を書くのに仏教のことを何も知らないなどということできませんから。それで華厳教などを読み出したんです。“夢”ということから華厳教を読み出したわけですが、華厳教というのがすごいものでして、本当にこれほど古い時代にこれほどすごいことをよく考えたと思います。まず感激したのが華厳教を読み出しますとね、絶対に眠くなるんです。これはなぜかというと、華厳教でいちばん偉い中心は大日如来です。で、大日如来がたくさんの菩薩を引き連れてどこかに現れてそこで説教を始めるんですね。その菩薩の名前が全部書いてあるんです。それがまた、よく似てるんです。それがずーっと続くんですよ。それで読んでいるうちにぼーっと眠くなる。それで、はたと気が付いたのは、要するに先ほどから言っていることと同じで華厳教をここ(意識の辺り)で読むなと言うことなんです。つまり普通の日常意識で読んでもわからないと。だから日常意識と違うところまでいったら華厳教がわかる、つまり華厳教を書いた人は、いわばこの辺から見た世界で書いているんですね。我々の日常は全部上の方で成り立っているわけです。ところが仏教はこっちの方へ降りていくわけです。そうすると、華厳教を理解するためには意識をずーっと下の方へ降ろさないとだめです。すると、気が付いたのは、華厳教は読むものではないということです。唱えるものです。要するに、皆と一緒に唱えているとだんだんと下の方へ降りてくるわけです。そしてこの辺まで降りてくると、先ほど言いましたように眠くなるでしょう。眠くなったら、ゴーンと音が鳴るようになっているんです。私はそう思っていまして。お寺に行ったんですよ。そして唱えているところに一緒に入れてもらって、やはり眠くなるとゴーンと音が鳴るんです。うまくできてるなと思いました。要所要所で音が鳴るようにできているんです。そうしてやっているうちにだんだん違う世界に入ってい くんです。ものすごく違う世界に入っていったら華厳教の言っていることがなるほどなとわかるんです。頭で華厳教を読んでも何もわかりません。 華厳教がいちばん言いたがっていることは簡単に言ってしまうと「ひとつの塵の中にも三千の仏あり」そんな文章が何度も出てきます。ちょっとした存在でも全世界と同等だということです。繰り返しが多いです。繰り返し繰り返し意識朧朧となりながら自分の体にたたき込むような知恵であって、我々が普通の歴史の教科書で物事を覚えたり、科学の方程式を覚えたりするのと全然違うんですね。頭で覚えるものじゃなくて。だから、お経そのものがそういう仕掛けを持っているということもすごいなあと思いました。 そして、華厳教を読んでいて、どういうことがわかってきたかというと、すごくこれを簡単に言ってしまいますと、意識というものは、区別をする′′ということではっきりするわけですね。つまり、世界の神話をみられたらよくわかると思いますが、世界の始まりは、天と地が別れるとか、光と闇が別れるとか多いでしょう。あれが何もかも同じだったら、意識はないわけですね。ところが、天と地が別れるとか光と闇が別れるとかで、これとこれということで別れるでしょう。そして、いろいろなところで、男と女とか善と悪とか、どんどん区別してその因果関係をみるというのが人間がやってきたことですね。 その中で、今言いましたように近代科学というのは、これの本当に先鋭化されたものですね。近代科学というのは本当にすごい。Atom というのは、tom というのは区別するということですから、a はその反対で区別できないものということで、物質の最後の単位と思って考えたわけです。ところが、これさえ区別できて量子だとか別れていくわけでしょう。どんどん区別して違いを明らかにして関係を把握するという方法が西洋の近代科学です。それに対して仏教は逆のことをやってるんです。逆に意識が降りてきて何もかも融合させる方法です。 皆さん、“夢”の体験では“もの”が融合するのをよく体験されるでしょう。友達だと思って会っていたらお父さんだったとか、自分が知らない間に子供に帰っていたとか。そういうことが起こりますね。ですから、人間の意識でも融合する方法と区別する方法があって、融合する方を体験していきながら明晰さを失わないという方法を、仏教は編み出したんです。“夢”の場合は起きて忘れる場合が多いですね。それは当たり前で、“夢”で体験していることはここ(意識)と合わないんです。ここでは私は絶対に私であって父親であるはずはないんですが、意識の下の方では私が父親と一緒になったり、恋人が母親になったりするから、こちらのシステムに合わないから忘れてしまうわけですね。その時にそういうことをきっちり見ようと、私と恋人が一緒であっても、どう一緒であったかちゃんと見ようではないかと。だから、面白い言い方をすると、意識を降ろしていくことは、西洋的にいうと意識が朧朧とすることなんです。我々も朧朧とすると何もかも一緒になると思うけれど、それを仏教は意識を滕朧とせずに明晰さを失わないままでここへ降りていこうということをやったんです。そのために修行ということが出てきたんです。要するに瞑想するとかいろいろなことをやりますね。あれは寝て“夢”を見る代わりに目を覚まして完全に“夢”をみようとしていることだと考えるとわかると思います。そういう体験をして集積していって、そしてお経に書いているわけです。ですから、お経を読むときに、私が言ったようなことを忘れずに、半分眠りながら時々とばしたりして見ているとだんだん何をいっているのか、わかってくると思いますが、これは大事なお経だからといって、一字一句漏らさないように読んでいたら何もわからないと思います。 そうすると、人間でもそうですが、友達が目の前でどこか切ってしまったら、こちらまで痛いという感じがしますね。やはり「融合体験」をしているわけです。で、人間は個々別々だけれども、相当、「融合体験」というのはあるわけですね。そして、人間と人間でも「融合」するくらいで、これが全部区別が付かないというところまでいくと、「もの」も「心」も何もないんです。もう名前がないんですよ。名前がないから仏教でよく「無」とか「空」とかいいますね。あれは何もないんじゃなくて何でもあるんです。何でもあるんですけれども名前が付かない。そういう状況がある。 で、残念ながら亡くなられましたが、井筒俊彦という世界的学者がおられまして。私が今話していることに関心があって本を読みたいと思う人は、岩波から出ていますが、今からお話しすることは井筒さんが言われていることですが。井筒さんというのは古今東西の本を読んでおられる方で、専門はアラビア哲学です。アラビア語がよくできて、先生にどのくらいの外国の言葉を話されるんですかと聞きましたら「さあ、どれくらいでしょう」と言われるくらいで。その国の言葉を使わない間は引き出しに入れておくそうです。必要な時に引き出すと思い出せるという天才的な方です。この井筒先生に幸いお近付きになって、いろいろお話を聞いたのですが、『意識と本質』という本は、本当に面白い本です。こういう本を読んでいますと、私が今言ったようなことが、もう少し難しい言葉で書いてあります。もっと体系的に書かれてあります。古今東西の本との関係が書かれてあります。たとえば老子に載っているとかそういうことが明確に書かれてあります。 私が言いたいのは、融合していくと、世界というものは名前の付けられない全部融合した、井筒式表現を使うと「存在としか言いようがない」という言い方ですね。「存在としか言いようのない」状態になる。そして、この「存在としか言いようのない」世界がこの我々の今住んでいる通常の世界に顕現してくる。現れてくるときにはその「存在」がこの、たとえば白墨として現れてくる。私の好きな言葉ですが、“挙体性起”というんですが、つまり、「存在」全部が出てきてこれになっているというのです。たとえば白墨として、黒板として現れてきているが、元をたどれば「存在」なんだということですね。それを華厳的にいうと「この白墨の中に全世界がある」というわけです。だから仏様もいるはずです。そういう表現なんです。 井筒さんの言葉で私が好きなのは、人間は「花が存在する」と言いますが、仏教的に言うとそういうふうには言ってはならず、「存在が花してる」というわけです。たとえば、「存在がコップしている」、「存在が河合している」と思うと、コップと私の関係がすごく変わってくるわけです。私がコップを客観的に見ているということではなくて、コップと私の関係がすごく近くなるでしょう。そういう関係でものを見ることができるか、あるいは、世界を見ることができるか、見るべきである、というのが華厳の教えなんです。 で、私もだんだんそういう感じが身に付いてきまして、そういう考え方で、たとえばものを見ると、「ものと心」とか言っていられないわけです。皆、「存在」の現れでできているわけですから。そういうことを考えますと、日本人は元々そういう考え方が好きだったんですね。だいたい区別しないですから。昔の言葉で言いますと、「もの」と「心」という区別ははっきりしていないんですね。「ものものしい」という言葉がありますが、要するに、「もの」と「心」が行き来する関係です。だから日本人はお金を渡すときでも、お金を払っているときは近代的支払いなんですね。ところが袋に入れるときがあるでしょう。あれは取引ではないんです。あれは「心」がこもっているわけです。あれはあなたと私の関係はそんな支払うもの、提供するものの関係ではないということで、「もの」も「心」も一緒にして、「心の表現」としてあるわけです。これは日本では定着していて、お中元とかお歳暮も昔からありましたし、「心の表現」としてあることなんですね。 そうするとどうしても包み紙が大事になってくるわけです。フォームを持ってくる。「存在」が形をとってくるということは、形を持つということなので、それで日本人は型というものがすごく好きになってくるわけです。「存在」が現れてくるときに、良い型にはまったら良いものになる。そう思っている人が多いのではないでしょうか。お茶とかお花とかもそうです。それを野球など西洋のスポーツにまで当てはめようとしますし、ひどくなると、学生を型にはめようとする先生もいて、おかしなことになったりすることもあります。長い日本の伝統の中で生きていますから。 そのように、「もの」を「存在」にまで返すと、「もの」と「心」が「ツーカー」になってきます。どういうことかというと、子供のころ「もったいない」という教育が大事だったわけです。ご飯粒ひとつ落としてもいけない。ご飯粒が大事なわけではないのです。ご飯粒は「存在」の“挙体性起”ですから、すなわち仏様が入っているかもしれない。父親が「もったいない」と言っているときには、宗教教育をやっているわけです。日本の国の面白いところは、こういうことが相当浸透しているから、日常生活の中で、宗教教育とか倫理教育が知らず知らず行われているという、非常に不思議な文化です。 この中でクリスチャンの方がおられたらよくわかるとおもいますが、キリスト教の方は日常生活は日常生活でやっているけれども、神に対しては教会に行って話を聞く、あるいは神父さんや牧師さんの言われることを聞く、またはいろいろな行事もあります。そういうことを守るシステムも持っている。日本人はほとんどそれを持っていないのです。私はよく外国へ行きますので、たとえばアラブの人から見たら、日本人はアニマル以外の何者でもないという感じですね。彼らが神に拝んでいる間に日本人は働いているわけですからね、「日本人は深夜にでも祈るのですか」というわけです。儲けて好きなことをしているだけで、動物と一緒で何のために生きているのかと。キリスト教の人から見ても、日本人は「教会は、戒律は、聖典は」などと聞かれますが、「まあ、ない」ばかりで。彼らから見ると、日本人ほど宗教性のない国はないということになります。 ところがそうじゃないんです。日本人は宗教性はあるんだけれども日常生活とオーバーラップしているわけです。ご飯の時に「いただきます」などというのは全部入っているんです。自分が食べているんじゃなくて誰かからいただいているものだと。要するに「存在」からいただいているわけです。自分というものから超越しているものが全部日常生活に浸透しているわけです。それが不思議なことに誰もそれを意識していないのですが、 「もったいない」とか「いただきます」とか、日常の言葉の中で日本人は宗教教育を受けているわけです。だから、そういう面を見る人は、日本人の宗教性は非常に深いという人はいます。 それからまた、日本人は落ち着いていると。よくわかるのは、地震などの時にパニックが起こらないでしょう。神戸の地震でも、暴動とか略奪とか起こらなかったですね。そんなこと考えられないと言うんです。「そういうときに、すっと受け入れて悠々としているのは、日本人は輪廻転生を信じているからだ」などと思っている人が多いです。私は「日本人はそんなこと信じていませんよ」と言うんですが。彼らから見ると、そうとしか見えないくらい日本人は落ち着いているんです。ハイジャツクの時などもそうですね。それは我々が子供のころから知らず知らず日常の中で鍛えられてきているんです。 ところが今は急激に「もの」が豊かになったんです。その「もの」というのは西洋流の「もの」ですね。区別された「もの」が急激に豊かになってきたので「もったいない」という教育ができなくなってしまったのです。「もの」がないということはすごく便利なのです。「もの」がないということは、ちょっとした「もの」の動きですごく心を伝えることができるんです。だから日本は「もの」と「心」を一緒にしながら「もの」が少ないという前提のもとでいろいろな教育が行われていたと私は思うんです。それが今、「もの」がどんどん豊かになってきた。「もの」が豊かになると今度は「心」の方をどうしていいかわからない。 欧米はどうしているかというと、彼らは「もの」は「もの」であるけれども、「教会」は「教会」として持っている。宗教教育も行われている。よく言いますが、アメリカで、お金持ちの家で、大学生の子供に車を買うなどという家はないと思います。みんな自分でアルバイトをして買っています。「もの」が豊かになってきたときには、子供の教育の時に、余分に「もの」を与えてはいけないということを知っているわけですね。歴史を持っていますから。「もの」が豊かな中で、いかに子供を育てるかとか、いかに教育するかということを、彼らは体験してきているわけです。私などの頃には本当に「もの」がなかったのです。その覚えがあるので、自分の子供に何かしてあげたいと思うと、とにかくおいしい「もの」をたくさん食べさせてあげようとか、たくさんの本をあげようとか、そう思うわけですが、子供からするとこんな押し付けはないと思いますね。こちらがどんどん勝手にやっていくということは、子供にすると、少しは喜ぶかもしれませんが、結局買っても、もっといい「もの」をということになって。日本人の今の根本的な意味における宗教教育とか倫理教育というのは、非常に難しくなっていると私は思います。 本当は日本全体で「もの」が豊かな方がいいと思います。豊かになるのは結構なことなのですが、豊かになったときに、我々はそれに対してどう考えるべきかとか、どういう教育をするか、その時の宗教はどうなるのかということを、もっと真剣に考えないと非常に難しくなるのではないか。その一端がこの頃、子供の問題として非常によく出てきていますね。あれは実は子供が悪いのではなくて、大人が悪いんですね。大人がすごく怠慢をしていると思います。それを真剣に考えていくためには、もともと我々がどう考えていたとか、もともとヨーロッパではどう考えていたかとか、そういうことをよく知らないとだめじゃないかと思っているわけです。 そういうことがひとつと、もうひとつ言いたいのは、先ほど「ものと心が一緒になる」と言いましたが、ちょっとまた話が変わりますが、この自我の辺りの体験は非常に言語に表現しやすいわけですね。つまり、自我の世界は言語で成り立っているわけですから。だからそこで体験したことや、研究したりしたことは、言語で表現しやすいし、他人にも伝わりやすい。ところが、私が言っているような、何かこの辺(自我の下の方)のことも大事だということになってくると、この辺のことをいったいどう言葉にするのか、どう他人に伝えるのかというすごく難しい問題が起こってきます。 で、たとえば、私という人間を紹介するときに、身長はどのくらいで、どこの生まれですとか、そういうことはいくらでも言えるわけです。ところが、自己紹介の時に身長とか、どこの生まれですとかいってもあまり喜ばなくて、ちょっと馬鹿なこととか言うと面白い人だなということになりますね。そういうことを言うのがうまい人がいて、つまりこの辺の体験がうまく出せる人がいるんですね。そういうことになっていくほど、その人の個性と結びつくわけです。そこで、この頃考えているのは「ものがたり」ということです。この、「もの」というのは「もの」も「心」も入っているんですね。昔からあったわけで。「もの」も「心」も入ったこの辺りの体験を人に伝えようと思うと客観的に伝えられないから、どうしても「ものがたり」にならざるを得ない。 今日は歯科医の先生方にお話しすると言うことで、父親とか兄とかのことを思い出していたんですが、考えると、お酒を飲んだりすると診療の「ものがたり」をよくしましたね。「義歯をパッとと入れたらピタッと入った」とか、本当かどうかわからないんですけどもね。「ある先生は、義歯を作ってピッタリ入らなかったら目の前で割って見せてもいいと言って、本当に割って見せた」とか。父親はどんなにか偉いと思っていろいろ聞いていたわけですが。 もうひとつ面白いのは、「ものがたる」ということによって、本人の体験というものになっていくんですね。だから本人も消化できるんです。誰にも言わずに自分だけで持っていると、何か落ち着きが悪い。誰かに言って、聞いた人がうなずいてくれたりするとおさまる。我々が実際自分の人生を生きているときに知的にいろいろな知識を持っているわけですが、そういう知的な知識だけじゃなくて、自分の知っていることや、やったことというのが自分の心におさまると言いますか、日本語では「腋に落ちる」という言い方もありますし。そういうものをもって生きているほうが強いですね。そうするためには、人間はどうしても「ものがたる」必要がある。 この「ものがたり」というのは、客観的記述とは違うんですね。そのためにどうしても話が大きくなるという傾向がありまして、それが大きくなると、「桃から生まれた桃太郎」などという話になってくるんですね。そういう子はいないんだけれども、子供の力、可能性、新しいものが生まれてくる力とかそういうことをすごく皆に伝えようと思うと、人間からじゃなくて桃から生まれた子がいるという話になってくる。または、ものすごくきれいな女の人が、実は竹からお生まれになったとか。そういう話にすると、この世のものならぬという感じが伝わってくるわけですね。その人の内的体験つまり主観的体験と客観的に起こったこととを一緒にして、あるいは、自分の日常の意識にある体験ともっと深いところにある体験を一緒にして伝えようとすると、これは「ものがたり」になると考えたら面白いのではないか。だから、始めに言いましたように、自然科学、近代科学の方法というのは客観的事実ということをすごく大事にして成立してきたものですが、我々が人間関係ということを基にして科学を考えていくのだったら、案外科学の世界に「ものがた り」ということが重要になるんじゃないかということを、私は考えています。生物学をしておられる中村桂子さんという方もこれからの生物学は「ものがたる」ことだと盛んに言っておられます。中村さんの考え方も面白くて、人間の生命ということを考えると、今のところ地球しかわからない。地球人と火星人を比べたりもできない。しかも一回限りのことです。今までの進化の過程を火星でもう一度実験したりとかできないですね。結局、実験もできない、一回限りのことである。これを伝えるとしたら、「ものがたる」しかできないのではないか。中村さんは「生命誌」*と言っておられます。これもなかなか面白い考え方ですね。 私はそういうことが大事になってくると思いますし、いつも思っていますことは、医学の研究は今まで近代科学の手法を使ってきて、まだまだ進歩すると思いますが、医療ということになって、ひとりの「人間存在」ということが相手になると、近代科学の方法をどうしても越えなければならないのではないかと。そうすると、そこには「ものがたり」ということも必要かということも考えています。 話をしているうちに、あちらこちらにとびまして、そちらの方が面白かったと言われるかもしれませんが、あとはみなさん、ご自分で心の中でまとめて下さるとありがたいと思います。 以上で終わります。 *学術委員会注
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